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2017.10.21

死ぬのが少し怖くなくなった話

100%避けられない死というものに対して、

かつては、単純に「怖い」という感情しか持てなかった

ただ、ビクビクしていてもしょうがないし、そんなこと怖がってたら

生きてる時間が面白くなくなっちゃうなあと思ったので、

いろいろな観点から、死について考えてみることにした。

 

 

まず、なぜ死ぬことが怖いのかを冷静に分析してみた。

まず1つ目の理由は、死に伴うかもしれない物理的な「痛み」だ。

うまくいけば眠るように安らかに逝けるかもしれないが、そうとも限らない。

むしろ、痛みを伴う死ってのはそう珍しくない。

うん、確かにこれは、死が怖い理由の1つだ。

しかしもし、「あなたは一週間後に死にます。ただし、痛みを感じることは全くありませんのでご安心ください。」と言われたら、やっぱり怖い。

ということはどうやら、痛み意外にも死を恐れる理由が存在するようである。

 

他に考えられるのは、「生きてやりたいことがあり、死によってそれが妨げられる(志半ばで終わる)のが怖い」というものだ。

これはすごくある。実際、痛みうんぬんというより、自分にはまだまだやりたいこと、成し遂げたいことが山ほどあるし、

死によってそれができなくなるのはそれこそ死ぬほど嫌だ。

バンドで有名になって、国内外のフェスに出まくって、音楽業界をひっくり返した存在として注目を浴びて、

でかい家に住んで、美人の奥さんをもらって、ラスベガスのカジノには年2回くらい行って遊んで、

バラエティ番組に出てみたいし、偉そうに雑誌の対談みたいなのもしてみたい。車はベントレーが欲しい。

まあこんな具合なので、どうせだったら全部成し遂げてから死にたい。

だから、死ぬのが怖い。

……

と、一回はこれで納得したのだが、どうもしっくりこなかった。

仮にこれらを全部成し遂げた時のことを想像して、そのとき改めて自分に「死ぬのは怖いか?」と問うたら、やっぱり怖い気がする。

「生きてやりたいことがある」というのは、「死にたくない理由」ではあるが、

「死ぬのが怖い理由」とまではいかない気がする。

とまあ、こうやって理由をあれこれ考えていたわけだが、なんかもう思いつかないし、

相変わらず死ぬのは怖いので、根本的な考え方を変えてみることにした。

 

一般的に「死」というのは、ネガティブなこととして捉えられている。

生きていることは良いことで、死ぬことは良くないこと。忌むべき、避けるべきことだ、と。

確かに、まだ生きている外野の人間からすると、親しい人が死ぬというのはとても悲しい。

つい最近、自分もそれを経験した。

小さい頃から家族ぐるみでの付き合いがあった、ピアノの先生だ。

音楽とは何たるかをチビだった自分に教えてくれた人であり、その先生がいなければ今の自分はないと思う。

やはり残された側からすると、死とというのはとてもポジティブに捉えられるものではない。

しかしそれは、あくまで第三者から見たときの感想だ。

「死とはどういうものか」に対する「当事者側の意見」というのは、実は誰も知らない。(当たり前だが)

ここで僕は、「死」とは実はポジティブなものなのではないか?と考えてみた。

感情論を一旦傍に置き、身も蓋もない話をすると、「死」というのは生物全てに起こる1つの「生物学上のイベント」にすぎない。

赤ん坊の身体はやがて大きくなり、2本足であるけるようになる。

成長するにつれて、乳歯は抜け、永久歯へと生え変わる。

思春期になると、いろんな毛があちこちから生えてくるし、

逆に年をとれば頭の毛は抜けてくる。

そして、死ぬ。

 

死というのは、これらありとあらゆる生物学的イベントのクライマックスだ。

クライマックスというのは、たいがい派手に祝うもんじゃないのか?

ドラマのクランクアップ、卒業、退職…

何事もクライマックスは祝福の対象だ。

ただ、さすがに他人の死を祝福するなんて輩は、よっぽど故人に恨みがあった人か、サイコパスくらいなもので、

祝ってくれる人はいないだろう。(祝われたらそれはそれでショックだが)

でも、やっぱり派手に祝いたいのだ。

こうなったら、自分でやるしかない。

死にゆく自分が、自分自身を盛大にセルフ祝福するのだ。

本当かどうかは知らないが、死の直前には「走馬灯」という便利な制度があるらしい。

自分で自分の人生の打ち上げをパーッとする時間くらいはもらえるはずだ。

2時間飲み放題もサービスで付いてくるかもしれない。

 

人生のフィナーレを飾る、しかも、一生に一回しか経験できない一大イベントが「死」だ。

こう考えると、死に対する印象が少し変わってくる。

友達の誕生日サプライズパーティや、忘年会やクラス会の幹事をやったことのある人ならわかると思うが、

盛大な祝福にはそれなりの準備がいる。

僕は自分の最後のパーティに、飾り付けが途中やりだったとか、出前が注文できていないとか、そういうのは絶対嫌だ。

完璧な死を迎えた自分を、完璧に祝福し、この世を去りたい。

完璧な死を迎えるには、完璧な生を全うしなければならない。

だから、今を全力で生きなければならない。

全ては、いつか来るクライマックスの準備のためだ。

 

こうやって考えるうちに、「死が楽しみだ」とまではいかないが、

少なくとも無駄に死を恐れることはなくなった。

その代わり、人生のラストに必ずやってくる一世一代のイベントの準備を、

今からせっせとやっているところだ。

最近「終活」がブームらしいが、年を取ってから形式上だけ死の準備をしても遅すぎると思う。

二十歳そこそこの若造が何を偉そうにと思われるかもしれないが(自分でもそう思う)、

どの墓に入るかとか、遺言状に何を書くかなんてことよりも、

どう生きたか、ということの方が最期にはよっぽど重要だと思う。

今するべきなのは、死ぬときの自分が納得できるような生き方をすること。

ただそれだけである。

そう考えたら、死ぬのが怖くなくなりました。

ついでに、理想の死に方について、いくつかアイデアを思いついたので、

どういう演出にしようかな〜というのも漠然と考えております。

以上、死ぬのが少し怖くなくなった話でした。

 

P.S.

新参者シリーズ最新巻、読み終わりました。

毎回毎回、ラストで度肝を抜かれます。

映画観に行こう。